藤原定家が生まれたのは1162年でした。
そして、
超新星爆発がおきたのは1054年。超新星の出現から定家の誕生までに、100年以上の隔たりがあります。つまり、
定家は超新星爆発を目撃したわけではなかったのです。 藤原定家といえば、『新古今和歌集』の撰者であり『小倉百人一首』を編んだ和歌の第一人者でした。その日記である『明月記』に残された100年以上昔の超新星爆発の正確な記録。まったりしたお公家さんが、夜空を見上げて風流な日記をつけていたわけではないようです。かに星雲の超新星爆発は、定家が実際に見たものではなく、
陰陽師から伝え聞いたものでした。
当時の日記というものは、
宮中や公家の年中行事を記録したもので、朝廷での
会議や儀礼・儀式の手順を子孫に残すために記されました。一方、陰陽師たちが所属した陰陽寮とは、内裏の中務省に属する
占い・天文・漏刻(水時計)・暦の編纂をつかさどる役所。中世の人々は、この陰陽寮が作成した暦によって日々の吉凶を判断し、物忌みや方違えをしていたわけです。遷都にあたって土地を選び、吉凶を判断するのも陰陽師の仕事のひとつでした。つまり、陰陽寮は人々の心情や日常生活、さらには国家のありかたにも大きな影響力をあたえた行政機関だったようです。
その陰陽寮の中でも、日食や月食、客星の出現といった
天体現象から災害を予測し、天皇に伝える役割を天文博士がになっていました。陰陽師でブームになった、あの安倍晴明が天文博士でしたね。貴族たちは、予期せぬ自然現象や不思議な夢、健康不安があると、陰陽師のもとを訪ねて吉凶を判断してもらい、助言をもらったようです。藤原定家は
1230年に出現した彗星について記録するにあたり、昔にさかのぼって見慣れない星の出現についての記録を確認したいと思ったのでしょう。当時の日本では、彗星や超新星、新生のように見慣れない星の出現を
「客星」と呼び、良くないことが起こる前触れと考えていました。そこで、定家は陰陽寮の安倍泰俊に問い合わせて、過去の客星の出現と出来事の記録を手に入れたわけです。その
過去の記録の中に、1054年の超新星爆発についての記述が含まれていたのでした。
100年以上も昔にさかのぼって
夜空の天体記録を行っていた陰陽寮。
中世の日本人も、
アナサジのように熱心に天体の運行を観察していたのですね。
このブログを書きながら、ふと思いました。
日本人は、いつから夜空を見上げなくなったのだろう...
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『明月記』の「客星」について、この本を参考にしました。
齋藤国治 『定家「明月記」の天文記録』 慶友社 1999年